しどり

常陸の国風土記と静織り(倭文)

倭文のいろいろな説を取り上げました。

風土記には静織についてこんな風に書いています。

風土記編纂の頃の織物 長幡部についての記述は詳しいです。

古代織の部屋ゆう

古代織・・・きっかけは風土記から

常陸国風土記・・・・・

常陸国風土記のコピー

奈良時代713年の詔に応じて提出された地方の報告書で、現存するのは他に播磨、肥前、豊後、出雲の五カ国のみ
郡内で産する鉱物、動植物、土地のようす、土地の名の由来、古老の伝える話等を記載しています。

主な参考本、常陸の国風土記の探求(河野辰男著) 常陸国風土記 (常陽芸文センター)

仲間と共に
静・倭文ってどんな布?

静とか倭文という言葉を日本書紀、
万葉集から探して、
何に使われていたのかを調べてみました。

神代の時代の織物・しどり
常陸の国風土記
静織の里風景
郡の東七里、太田の郷に、長幡部の社あり。・・・長幡部の遠祖、タテの命、三野(美濃)より去りて久慈に遷り、機殿を造 立てて、初めて織りき。
     
その織れる服はおのずから衣裳となりて、更に裁ち縫うことなく、内幡(うつはた)と謂う。
またいへらく、あし衣を織るときに当たりて、たやすく人に見らるるからに、屋の扉を閉じて闇内にして織りき。よりてうつはた(内幡)となずく。
たけき兵、こわき刃も、裁ち断ることを得ず。  
今、年毎についてわきて神の調と
為して献納れり
 
郡の西十里に静織(しどり)の里あり。
上古の時、綾を織る機を知る人あらざりき。時に、この村に初めて
織りき。 因りて名づ

 この記述を読んだ後、静神社と長幡部神社を訪ねました。たった一行の記載にしか過ぎない
静織の神社は見上げるほどの立派な鳥居。かたや、風土記の時代に盛んに織られていたような
長幡部の神社は素朴な社。一体これはどうして?  そんな疑問から静織への興味が生まれました。
ここではそんなきっかけとなった常陸国風土記の久慈郡のご紹介、静織の諸説等を取り上げます。