麻を植えて、青和幣を作る
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(麻を植えて衣服を作る技術の創始者)
あや布を織る。倭文布の祖
垂仁天皇 石神神社の項に いにしき命は楯部・倭文部・玉作部・・・・等十種の品部(とものみやっこ)を賜った。以下略
万葉集より
倭文手(た)まき数にもあらぬ命もち
倭文手まき賎しき吾がゆえ・・・・・
天羽槌命
木綿(ゆふ)だすき肩に取りかけ 倭文幣(しずぬさ)を手に取り持ちて
常陸太田市白羽町天之志良波神社
梶の木(楮)を植えて
、
白和幣を作る。(和紙の始祖)
倭文(しず)って何につかわれたのでしょう?
倭文手巻きが数に懸かる枕詞
倭文機を結び垂れが誰への枕言葉
古代(4 から6世紀?)文様を織る技術集団、倭文部が常陸の国にやってきた。
雄略天皇 蜻蛉を讃えて詠んだ歌 玉で飾った胡坐に座し 倭文で飾った胡坐に座し・・・・
白和幣、青幣(青といっても染めているのでなく、繊維の青みががったと言う意味)
同様、倭文も幣として神事につかわれたことが 倭文幣という言葉で分かります。
上の図は素材、布への移項をあらわしているようでもあり、原始、神事に使用されたものはいずれも素材に近いシンプルなもののように思います。この三つの織集団は同じ系統に属し、久慈郡の各地でその繊維の幣を神に手向けつつ、専門の技を広めていったものでしょう。
なお、しずとかしどり、しずりとか呼ばれる天羽槌命を祭った神社は山陰から関東まで十数か所あるそうです。静岡という地名も賎機山由来で、久慈郡の大甕倭文神社と同じかかせおの伝説があります。
大君の御帯のしつはた結び垂れ 誰や
静神社の御祭神は、健葉槌命(たけはつちのみこと)、一名は天羽槌命
古語拾遺という書物を見ると、「この神は太古の時倭文を織って天照大神の天窟戸に仕え申し上げて」となっている。そこで、この命の系統を同書で調べると
上の歌は 古の狭織(さおり)の帯を結び垂れ・・・とも詠まれる。
日本書紀より
古(いにしえ)にありけむ人の しつはたの 帯解き交えて
長白羽命
倭文の神
那珂町鴻巣、鷲神社あり
瓜連町、静神社
このように見ていくと、風土記、日本書紀、万葉集の編纂された頃には倭文は古の、しかも伝承の中での織物となってしまっていたのではないでしょうか。神代の時代に神通力(?)を誇った倭文も倭文部も新しい織の流れの中に同化するか、幣のような神事にのみ生きつづけていたのか・・・・倭文(しづはた)が賎機という字になったり、数にもあらぬと歌に詠まれるそれがこの時代の倭文の置かれている立場なのでしょうか?
赤駒に 倭文鞍うち置き はひ乗りて・・・