いろいろなドラマを持つ風土記の世界。
久慈の郡は いにしえのようすを生き生きと伝えます

郡役所の北方近くに山田の里があります。その辺りの多くは開墾した田(墾田)となっています。そのことから里の名がつけられました。そこを流れる清い川(山田川)の源は、北の山にあって、群役所の南近くを通って久慈川に合流します。この川から多くの鮎がとれます。その大きさは人の腕ぐらいもあります。

その川の深い淵のあるところを、石門(いわと)といっています。茂った木々が林となって、頭上を枝枝が覆い、清い水は深淵となり、その下流からはさらさら流れる音が聞こえます。

青葉は日光をさえぎり、きぬがさのように風にひるがrったりしています。
川底一面の白砂の上に、戯れているように小波がたつ様は、まるで白い筵(むしろ)を敷いたようです夏の暑い日には遠近の村里から暑さを逃れ、涼しさを求める人々がやってきて、
膝をならべ、手を取り合って、筑波の雅曲(かがいの歌)をうたったり、久慈の美酒を飲んだりします.これは俗人の遊びというものですが、暫時俗世間の煩わしさを忘れることができます。
その里の大伴村には、絶壁になった川岸があります。そこは土が黄色で、
多くの鳥が飛んできては、ついばんで食べています
郡役所から東約一里のところにあります太田の里に、長幡部神社があります。
古老の話ではすめみまの命が高天原から降臨なさった際、御服を織るために
かんはたひめの命という名の神が従い降りてきました。
かんはたひめの命は、初め筑紫の国日向にあります高千穂の峰に降り、そこから美濃の国の
引津根の丘に行かれました。
その後 崇神天皇の世になって、長幡部の祖であるたての命が美濃の国から久慈の国に移り、機屋を造って初めて布を織ったといいます。

その織物は」そのまま着物となって、改めて裁ち縫う必要がありませんでした。
これを内幡(うつはた)と称します。
 またある人は「あしぎぬ(太絹)を織るときは人目につきやすいので、
機屋を閉じて室内を暗くして織ったので、烏織(うつはた)と名づけられたといっています。
その布は屈強の兵士の鋭い刃でさえも断ち切ることはできません。
この布は現在の毎年特別」に、神への供え物として奉納しています。
常陸の国風土記 久慈の郡
山田の里
市というところがあります。ここから東北半里もないところに、蜜筑の里があります。
この村の中には清らかな泉があって、土地の人々は大井と呼んでいます。
泉の水は夏は冷たく、冬は暖かで、湧き流れて、川(泉川)となっています。
夏の暑い時はあちこちのp村里から男女が酒や肴を持ち寄ってこの泉に集い、くつろいで飲んだり食べたりして楽しんでいます。

密筑の里の東」と南は海辺に臨んでいて、あわび、うにをはじめとして魚介の種類が大変多くみられます。西と北は山や野原に接していて、椎、櫟、かや、栗等が生え、鹿やいのししがすんでいます。

このように、山や海の珍味が沢山あって、全部を書き出すことができないほどです
密筑の里の北東約二里半余に助川の駅家があります。昔は遭鹿(あうか)と呼んでいました。古老の話では倭武の天皇がこの地にいらっしゃた時に、皇后の弟橘姫命がおいでになって、お会いになられました。
それで遭鹿と名づけられたといいます。国司が、久米の大夫の時に、この地の河から鮭をとったので助川と」名づけました。それはこの土地の人々が、鮭の親を須介(すけ)と呼んでいたことに由来します

古老の話によりますと、郡役所の南方近くに小さな丘があり、その形が鯨によくているので 倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)が久慈という名をつけました。

郡の名の由来

大甕倭文神社の岩
薩都神社
薩都の里 名の由来
これって青丹?

静織の里

静織の里写真
山田川
長幡部の織物
鏡石
郡役所の西一里余の所に静織(しどり)の里があります。
遠い昔、この地方に模様入りの綾(しず)を織る機を知る人がいない時期に、この村で初めて綾を織ったのに由来して里の名になりました。
この村の北に小川があって、そこの川石の中にはメノウ石が混じっています。色はあかく
火打ち石に大変よく、それで玉川とよんでいます。
天智天皇の世に、内大臣藤原鎌足の領有する土地を視察するために派遣された軽直里麻呂が
この地に堤を築いて池を造りました。その池から北の山を谷会山といいます。
山の際は絶壁のように切り立っています。色は黄色でところどころ穴があいています。そこに猿が集まってきて、寝たり食べたりしています。

河内の里

山田川  猫淵辺り
(上に横穴古墳墓あり)

長幡部の里の幡山

鏡岩

岩手橋より見た山田川

山田川
蜜筑の里
泉神社の泉
 この太田の郷より北に、薩都の里(常陸太田市里野宮付近)があります。
その昔、土着の先住民で土雲というものが住んでいましたが、兎上命が兵を伴って滅ぼしました。
その時、うまく平定したので「幸なことよ」といわれ、それから佐都(さつ)と名づけられました北の山にある白土は、絵の具として利用できます。

 東の大きな山をかびれの高峰と呼んでいます。
そこには天つ神が住んでおられ、名を立速男命、別名を速経和気命といいます。
もとは高天原から降りられ、松沢の松の枝の別れ目にすんでおられました。
この神のたたりは非常に激しく、人がその神の向かって大小便をしようものなら、神は災難をふりかけたり、病気にしたりしましたので、近くの住む人々はいつも大変苦しんでいました。

そこでこの状況を朝廷に申し上げ、神のたたりがないように願いでました。
さっそく朝廷から片岡の大連が遣わされ、謹んで祭りを行い、神に「今おられる土地は、農民の家が近くにあって、朝な夕なに何かと汚れ、神がおられるところではありません。どうか、この地からお移りになられて、高い山の清浄なところに鎮座なさるべきです」と祈願しましたところ、神はこの願いをお聞き届けになり、かびれの峰にお登りになったということです。

その社は石垣がめぐされ、境内には神に仕える一族が多くいます。
またたくさんの宝物や弓、鉾、釜、器などが、すべて石となって残っています。
空を行く鳥たちはことごとく避けて通り、この峰の上を飛びません。
昔からそうでしたが、今も変わりありません。そこには小川があり、薩都河(里川)といいます。源は北の山々から発して南に流れ、久慈川に合流します。
郡役所から西北二里半あまりのところに河内の里があり、もとは古古(ここ)の村と呼んでいました。(この土地の人は、猿のなき声を古古(ここ)と言っているそうです。

東の山には表面が鏡のようになっている石があります。その昔鬼が住んでいて、
集まってその鏡を弄ぶように見ていると、いつの間にか退散してしまうのでした。
(この土地の人が言うには疫病をもたらす鬼も鏡に向かうと、
ひとりでに姿を消してしまうものだといいます。)

そこにある土の色は紺色に近く、画に用いると美しいそうです。(この土地の人は青にとか、かきつにともいっています。)時には朝廷の命のよって、
この土を取って献上することもあります。
この土地の人の話では、久慈川はこの河内の里から流れ出ているといいます。

これって、青丹?

静織の里

神代の時代の織物