山藍摺り染
青摺りの講習会参加(2001年)
昨年秋、たかさき万葉植物園で青摺りの講習会があった。
このときは栽培している蓼藍を使って絹布に
写真のような摺り染を行った。
摺染方法
1.文様を彫った版木にタンポでひめのりをまんべんなくつけ、
その版木にあしぎぬをのせ タンポで叩きながら版木に貼り付ける
2.手でよく叩きながら布と版木を密着させる。
3.山藍または藍の葉を摺り鉢に入れてよくすり潰す。
4.すり潰した葉を木綿の布で包んでタンポ状にする。
5.あしぎぬを張った版木をタンポで叩きながら凸面を摺り染めし、
その後乾かす。
6.乾いたら版木からあしぎぬを剥がし、水に浸しておく。
よく水洗いして乾かす。
摺り染めというと思い出すのは 陸奥の信夫文字摺り たれゆえに 乱れ染めにし われならなくにと歌われる、信夫文字摺りだ。
これは忍草を用いて摺った衣の意で、山藍の場合は
紅の赤裳裾引き 山藍もち摺れる衣きて ただ一人い渡らす児は・・となる。
2002年春、古代織ゆうの会では最後の文集第5集を仕上げました。
活動を始めて1年半〜2年ごとに活動記録を作っきた締めくくりの文集です。
巻末に編集の係りをしていた仲間の方が 次のようなコメントを綴られました。
2002年、観測史上稀に見る早い春が訪れ、資料館の桜も見事に咲きました。早いもので、ゆうの会の文集も今回で5冊目。今回は、草木染めはもちろん、牛乳パックで和紙、楮の繊維で糸を紡ぎ、表紙を作りました。
創作意欲も満開の桜に負けぬほどです。・・・以下略
最後の文集で私は、10年の歩み・山藍の摺り染め・藍の生葉染め・紫草について書きました。
山藍の摺り衣・・・・・・・・・・衣に染み付く葉っぱがあった!・・・・文集より
古代の染めに「摺り衣」というのがある。花(かきつばた・ツユ草等)や葉のうち、染めつきやすいものが長い歴史の中で自然と認識され、染めの素材となっていったのであろう。古代の染めというより、
原始の染めといった方がぴったりの世界だ。
その中で歌に詠まれたり、源氏物語等にも出てきておなじみなのが、山藍の葉で染めたと言われる青摺りの衣。
なかでも神事、祭事に使われる衣は小忌衣(おみごろも)と呼ばれる。
同じく古代にあって神事に使われることの多かった倭文(しず)。どこかに接点があるだろうか。
大甕倭文神社にある魔王石には石摺り衣の伝説があるということを鹿島郡の郷土史で知った。
また、別の本で忍文字摺りから地名となった信夫郡で大甕と同じ花崗岩が見つかったという記述を読んだことがある。
さて、真偽のほどは分からないが、倭文と摺り衣が一つの線となる可能性も生まれるかもしれないまあ、このロマンに少し時間をかけてみてもいいな・・・・・そう思ってはや六〜七年経つ。
そんなことに関心を抱いている頃、辻村喜一著の「万葉の山藍染め」という本を読んだ。
表紙」を開くとすぐに山藍の群生している写真がぱっと目に飛び込んだ。場所は和歌山県の芳養八幡宮(はや八幡宮)神事に使う山藍を提供している石清水八幡宮の荘園とある。
芳養は義母の里である。しかも良い具合に同じ頃法事があり、芳養に出かける夫に頼み八幡宮の山藍を2〜3株もらってきてもらった(1996年)。もう、六年も経ち、庭の隅で元気に育っている。今年は摺り染めの材料となりそうだ。
ところで、神事に使われる衣の染料が何故、蓼藍(一般に現在使われている藍のもと)でなく、山藍なのだろうか。まだ蓼藍が日本に伝わっていなかったのだろうか。いろいろ分からないことがでてくる。でも実際に山藍を育てて分かったのだが、山藍は冬枯れることもなく、青々とした葉を広げているし、寒さにめげず小さなつぼみをいっぱいつけている。この枯れることのない、しかも冬からつぼみを付けるその生命力こそ古代の人が生への憧れや祈りを感じたのでは無いだろうか。
山藍を論ずるものはいくつもあるが、どれもが染色のみで話が進められているが、古代の人の精神的なものを考えると山藍自体の生態にあると思えて仕方ない。神事に使われる植物は常緑を尊んだとするなら、衣に付けるのも単なる色でなく、山藍の生命力でなかったのだろうか。
、はるかな年月の間に元来の精神性は欠落して、
より便利なものに移項したりすることはあるだろうが・・・・・。