神社へ続く切り通しの道

こちらはムード溢れる切り通しの道

長幡部神社の鳥居
静神社の森
静神社の森
静神社の森

静神社

 神社の入り口を示す看板の脇を入り、人家を通り抜けるとじめじめした切り通しがあります。いかにも人と神を結ぶ道といった趣です。
 小高い丘の上の神社は 古くからの氏神様らしく素朴で静かなたたずまいです

十数年前の正月、初めてここを訪れた時、1升びんを持った男性が孫の手をひいて
上がって来るのに出会いました。ああ、いいな〜。ゆったりした雰囲気があたり一面に漂っていたのを 懐かしく思い出します。   

長幡部神社入り口

パッチパークが目立ちますが、右手静神社の森です。

 長幡部の氏族は美濃の国からその技術を携えてこの地に来たとされます。奈良時代から平安時代に栄えたということです。

 また結城紬の前身とされ、結城からの参拝者が 多かったそうです。かたわらの建物には結城の腰機が奉納されていました。

 この神社のある丘一帯の丘陵地帯は数多くの横穴古墳墓があります。中には古墳線画が描かれているのがあり、入って見ることができました
 写真、見にくいですが、鳥の絵が描かれているのがわかりますか?

静神社周辺を歩いてみました。

静神社、織姫の像

本殿

境内には巨石が沢山。まるでロッククライミング

静神社山門
大甕倭文神社の宿魂石
長幡部の里、横穴古墳墓の壁画
静神社

 大甕倭文神社は太平洋を見下ろす石名坂にあります。
祭神、健葉槌命(たけはつちのみこと)が武功に優れていたことをしめす神社です。
それ故に現在の位置に広い土地と立派な社殿を持ったもので(光圀公の時) 
本来は質素な社殿か祠であったようです。

 この倭文神社には、鹿島の神と香取の神が常陸を平定しょうとしたが、
石名坂を支配していた悪神「かかせお」が抵抗。しどりの神が加勢し退治できたと言う伝説があります。(日本書記)交通の要所であったという土地の立地条件等考えると 
確かにそのようなドラマが展開したに違いないと思えてきます。

 大甕倭文神社の山の下には織と武の両方で古代活躍した倭文部の住まいもあったのでしょ
う。
・・でも実際にこの近辺を歩くと、織をするなら静神社周辺のほうがふさわしいかな。

太古の時 この神 倭文を織りて天照大神に天窟戸に仕奉り・・・・(古語拾遺)

・・・・・というように倭文祖、建葉槌命は古い神です。静神社の境内には高房社という末社があり、それが織物に関係した社ではないかとされています。
 
 近隣の婦女が機織の布(端布)をこの社に捧げて上達を祈る風習が
古くからあったそうです
の風習にちなんで 布を手に広げた女性の像が建てられています

木立の遠くに山門がみえる

山門

鳥居と社殿 今の神社とは別の所に
旧宮があるそうです。

参道入り口の看板 

長幡部の里、遠景

長幡部神社

大きな鳥居をくぐり石段を登って行くと周囲は空を覆い隠す杉の木立。その見事さにシャッターを切ると こんな写真に。中央に見えるのが山門。

大甕倭文神社伝説のかかせおの木彫り
大甕倭文神社の古宮
大甕倭文神社の巨石
大甕倭文神社

この織姫様はどんな布を
持っているのでしょう

大甕倭文神社

宿魂石

かかせおの伝説が彫られて

古宮の跡

 現在の社殿より少し上の藪の中に小さな祠があります。
昔の宮跡(奥の宮)と聞きましたが里には普段お参りする里の宮があったのかしら?
大甕倭文神社の神主さんの話では ここら一帯は昔、湧き水があちこちにあったということでした。

今の神社から20分程海岸のほうへ下ると 風土記に「清らかな泉があり、村人が集まりたのしむ」と書かれた蜜筑の里があります。
この大甕山の東端には防人になった倭文部の可良麻呂の住まいがあったそうです。

なんだかくちばしの長い
鳥の絵です。

里川と長幡部の里

初めてこの静神社を訪れた時、同じ機織の神を祭る長幡部神社とは
比較にならない大きさなので不思議に思ったものでした。

でもいろいろな本を読むうちに この神が単に織物の神というだけでなく
軍事力も兼ね備えた氏族の神であることが分かりました。
だからこそ古くから格のある神社として扱われてきたのですね。

大甕神社から長幡部神社へ
古代織の部屋ゆう